ポーランド相互ホームスティプログラム
名城大学 都市情報学部 070781122
辻本 龍平
はじめに…..
僕は8月4日から9月1日までの夏休み期間中に名城大学の相互ホームスティプログラムに参加した。
僕が今回ホームスティさせていただいたのはワルシャワ大学日本語学科4年生ディアナ・ブラスチクさんのお宅であった、彼女の通うワルシャワ大学日本語学科では日本語は日本を理解するためのツールとして用いれられ、3年間で常用漢字約2000字を暗記することが必要だというのだ。
彼女の日本語はとても上手く、日常生活において何も差支えることなく安易にお互いのコミュニケーションをとることができた。
このレポートではポーランドに実際行ってみて感じたことやヨーロッパの都市の景観や雰囲気などについて述べていこうと思う。
日本からヨーロッパへ・・・
8月4日、いつもとかわらず名古屋の朝は蒸し暑かった。
僕は11時発のフィンエアー・ヘルシンキ経由ワルシャワ行きの飛行機に乗るため、名古屋から特急を乗り継ぎ空港に向かっていた。
空港に到着し、手荷物検査や身体検査を済ませ飛行機に搭乗した、これからどのよう
ことが待っているのだろうか?期待と不安を抱き飛行機はヘルシンキへと出発した。
中部国際空港から14時間かけヘルシンキに到着した。
やはり北欧の国だけあって飛行機から降りると肌寒さを感じる、日本ではこの時期30度越えを超えるのが当たり前だが、ここフィンランドは20℃前後しかないのだ、先生達はコーヒを飲んでカフェでくつろいでいたが僕はこれからのことで頭がいっぱいでなんだか落ち着かなかった。この先どんなことが待ち受けているのだろうか・・・・
ワルシャワ到着
8月4日
とうとう僕達はポーランドの首都であるワルシャワに到着した。
周りを見渡しても日本人は殆どおらず外人ばかりだ、僕は今海外にいることを実感した。
それから空港の到着口で今回のホストである、ディアナ・ブラスチックさんと再会することになっているが僕の心臓はバクバクしており、緊張は最高潮に達していた。
僕達は各家庭のホストと対面した、到着口にはディアナさん、マルタさん、シルビアさんとシルビアさんの夫であるヤヌスさんが待ってくれていた。
その後ディアナさんと簡単なあいさつを交わし、彼女に家までバスで向かうことにした。
ポーランドの公共機関はバス、トラム、地下鉄であり共通のチケットを買うことで利用することができる、また日本のように改札口というものが存在せず乗車したら車内に設置されている改札機に自分で改札する必要があるのだ。
初めはかなり緊張し自分から話せなかったが、バスの中で彼女が趣味や日本の印象について話してくれたので、答えていくうちに緊張が和らいできた。
それからポーランド語の本を使い自分の名前、あいさつをしたがなかなか思うように理解してもらえなかった、やはりポーランド語の発音は自分にとても難しいものだ、日本語で返してくれる彼女に申し訳ない気持ちになった。
そしてバスを降り、地下鉄のIMELINという駅で降り15分程度歩いた。
彼女の家はワルシャワから少し離れた郊外にある、近辺には住宅地やスーパーマーケット、飲食店などが多く立ち並んでおり、その一角に彼女のアパートがあった。
ワルシャワでのホームスティ生活
ディアナさんはアパートでお兄さんと二人を暮らしである。
お兄さんはワルシャワにあるコンピュータ関連の会社に勤めている、彼は朝早く外出して夜も遅くまで仕事をしていたのであまり話す機会がなかったが、彼は優しく接してくれて、英語で色んな面白い話しをしてくれた。
食事に関しては朝、夜は彼女に作ってもらい昼は自分で自炊したり、ポーランド料理を食べに連れてもらったりした。
彼女は普段あまり料理をしないらしく、お世辞にも料理が上手といえなかったが彼女の一生懸命な姿勢がとてもうれしかった。
彼女は囲碁が好きらしく、何度もワルシャワの近くにある囲碁バーに連れてもらった、日本では囲碁というと年配の遊びという印象があるが、このバーでは30人ぐらいの若者が真剣なまなざしで碁打っていた。
ワルシャワについて
ポーランドは人口約3811万の国でヨーロッパのほぼ真ん中に位置し、西は大国ドイツ、東はリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、南はチェコ、スロバキア、北はロシア(カーリーニングラード)に挟まれる内陸国であり国の面積は日本の約5分の4で中世の趣を残す国である。
まずワルシャワの街の第一印象は街が非常に美しいということだ、まるで18世紀に自分がタイムスリップして街を歩いているような気分になり、これが第二次世界大戦で市街の90%以上がナチス・ドイツ軍によって焼失した街並みとは思えなかったが、これはワルシャワ市民が設計図を元に10年以上掛けて復元した街並みなのである。
また日本と違い、ゴミ箱が等間隔に設置されていたので道端にタバコやごみくずをぽい捨てする人が殆どおらず、道端にゴミがほとんど落ちていなかったのが印象的であった。
写真は北のパリと称されるクラクフ郊外通りで大統領官邸、ワルシャワ大学、聖十字架教会、コペルニクス像などや数多くのカフェが立ち並びワルシャワで最も美しい場所である。
日本と同じく敗戦を味わったポーランドだが、戦争で受けた負の遺産を上手く利用した都市造りをワルシャワがしているように思えた。
旧市街広場とバルバカン
ここはワルシャワ旧市街の中心にある旧市街広場である。
広場の中央には広場のシンボルである人魚像が剣を振りかざし、周囲には画家が絵を売る画商やカフェが多く立ち並び市民の憩いのスペースとなっていた。
その他にも民芸品をとり扱うおみやげ屋、更には長い歴史のある高級レストランが路地に立ち並ぶ。
旧市街の北バルバカンという城下町を取り囲む砦がある。
ワルシャワのバルバカンは第二次世界大戦後にナチス・ドイツ軍に破壊されてものを戦後再建したもので、当時は火薬庫や牢獄として使用されていたらしい。
古都クラクフ
ワルシャワからPKS鉄道で3時間程度掛けてクラクフに到着した。
クラクフは1956年にワルシャワへ首都が移動されるまでポーランドの首都として栄えていた街であり、ヴィエリチカ採掘場やアウシュビッツ収容所を訪れる拠点となっている。
第二次世界大戦でワルシャワの旧市街が破壊されるがこのクラクフはドイツ司令部が置かれていたので戦災を免れたという。
歴代のポーランド王が好んで住んでいたというヴァベル城を始めとする街並みはユネスコの世界遺産遺に登録されている。
城壁に設けられたフロリアンカ門をくぐると旧市街にたどり着くが、クラクフの旧市街自体はワルシャワよりも大きくないため歩いていても道に迷うことなく中世の雰囲気を味わうことができた、またいたるところに24時間営業のコンビニやカントルなどが多く立ち並び、更には設備の整ったホテルが数多く立ち並ぶので典型的な観光地といえるだろう。
更にクリーム色が目印の織物会館には町のインフォメーションがある
1階の奥を歩いて行くとポーランドの名産品である琥珀や木彫りのアクセサリーを扱うショップやお土産屋がズラリと立ち並ぶ。
2階は国立美術館となっておりポーランドの18世紀〜19世紀の絵画が展示されていた。
ヴィエリチカ岩塩採掘場
クラクフ本駅のショッピングセンターからMPKのバスで30分かけて向かったのは南東の小さな町ヴィエリチカ。
この街の地下には13世紀から1950年まで稼働していた世界最大級の岩塩採掘場が広がっており1978年にユネスコの世界遺産に登録された。
英語によるガイドツアーに引率され、階段をひたすら下ると採掘跡の空間に岩塩で造られた数々の肖像を見ることができ、当時の採掘に使用されたトロッコやカゴなど当時の作業の様子が伺えた。
当時はこの洞窟で作業中に事故が起こりかなりの方が亡くなったといわれている。
寒い洞窟の中を歩いていると壁に白い塊を発見した、良く見ると壁や天井は塩の結晶が溶け出しているため舐めると塩辛いことがわかった。
見学コースの途中で訪れた礼拝堂の天井にあるシャンデリア、最後の晩債のレリーフ、床、祭壇は全て塩の結晶でできており、見る者を圧倒した。
ヴィエリチカを訪れたのは8月中旬だったが採掘場内は気温がかなり低く肌寒く感じたので何か一枚羽織るものが必要だと感じた。
アウシュヴィッツ強制収容所
クラクフ本駅のバスターミナルからミニバスで1時間くらいかけて到着したのは、アウシュヴィッツ強制収容所だ。
入口には働けば自由になるというスローガンが掲げられている。
この収容所があるのはクラクフから西54kmのところにあるオシフェンチフという町の郊外でありドイツ名でアウシュビッツと呼ばれる。
ここの場所は第二次世界大戦中ヨーロッパ各地のユダヤ人、政治犯、身体障害者、ロマ人、ゲイ、レズビアンなどの人々が長い列車の旅を終えてたどり着く終点なのである、日本人ガイドの中谷さんの話によると列車から降りた人々はあらゆる金品を奪い取られ健康かどうか選別されうえ働けない者は即ガス室に送られ殺されたそうだ。
働ける者は囚人服に着替えさせられた後、髪を丸坊主にさせられ複数人に一つだけのベットが割り当てられそこで生活するのだという。
囚人達は休みなしで毎日10時間以上の過酷な労働を強制的に就かされ逆らうものは鞭打ちや拷問などの処罰が待っており、脱走を企てると連帯責任とし同室の者全てが殺されることもあった、更には囚人に人体実験のため様々な薬を投与したり、死者の脂肪から石鹸を作り、囚人の髪の毛で敷物や布を作るという人体作業が行われ最終的にはここで数十万から数百人が命を落としたといわれている。
ビルケナウ
アウシュビッツからミニバスに揺られること10分・・・・5km離れたところにビルケナウ収容所がある。
到着するとイスラエルの旗を翳した宗教団体やドイツ人の団体が白い帽子を被りながら聖書と思われる書物を朗読していた、ここは世界中の人々が祈りを捧げる場所なのだ。
僕はゆっくりと深呼吸しながら壮大な地を歩いた、八月なので日差しが非常に強くポーランドの空にはたくさんの白い積乱雲が浮かんでいる、壮大な敷地の中には労働者を収容するバラックというレンガ造りの小屋が並べられており小屋の中には三段ベットが狭いスペースの中に作られていた。
更に歩いてゆくとシャワー室と騙され連れてこられるガス室があり、死体を焼く焼却所、焼いた後に残った灰を捨てる死の池があった。
ドイツ人がこの施設に求めたのは効率であり、いかに沢山のユダヤ人を収容し、働かせ、円滑に殺させることだと思った。
戦争は残酷だ、彼らのやっていることは人間性の欠片もない残虐行為であり、ここアウシュビッツは広島の原爆ドームと同じように人類の作った負の遺産なのである。
僕達、若い世代が後世にアウシュビッツの真実を伝えなければならない、そうしなければまた同じことを人間は繰り返すと思う、だからここで起こったことは絶対に忘れてはいけないのだ。
ポーランドの食文化
少し余談だがここで少しポーランドの食文化について触れてみたと思う。
ポーランド料理は僕にとっても親しみやすい味であった。
特にビゴスなどの煮込み料理や写真にジュレックというライ麦を発酵させたスープは絶品で、出される料理はどれを食べてもおいしかった。
またスープは冬などの寒い季節に飲むだけではなく、フォドニク(赤カブの冷製スープ)のように夏用の冷たいスープも存在した、またポーランド人はスープを『飲む』とは言わず『食べる』というのには驚いた。
ポーランド人の主食はジャガイモである、またポーランドは寒冷な気候であるためパンや乳製品の種類が非常に豊富で日本で買うよりもかなり安かった。
肉製品は非常に食べ応えがありソーセージやハムには数えきれないぐらいの種類があったが、それに比べて魚の種類が少なくスーパに行ってもほとんどが冷凍された魚しか売っておらず、エビや貝などの海産物は無いに等しかった。
全体的にポーランドは朝・晩の2食制であったが、出される料理の量がとても多く、その後に必ずといっていいほどデザートが待っていた。
ケーキやアイスクリームやチョコレートなどのデザートは基本的にどれも日本の物よりも甘かったが、美しくデコレーションされたデザートや手作りのデザートには温かみがあり食べていると自分を幸せな気分にさせてくれたのだった。
一人旅へ出発!
実はこのホームスティをする前からヨーロッパを11日間かけて一人旅をする計画を立てていた。
一人旅を実行した理由は大学生活で何かしらやり遂げたということがなく、自分と向き合って新しい自分を発見しようと思ったからだ。
行く以前から英語は通じるのか??ヨーロッパの治安は大丈夫なのか?? などの不安は多少あったが、こんな経験は今しかできないと思い一人旅を決心したのだった。
プラハ
8月9日〜8月10日
8日のクラクフ10:00発の夜行列車に乗り、朝6:00にプラハに到着した。
プラハに一歩足を踏み入れたのは良かったが小さな路地が多く存在し目的のユースホステルを見つけるために2時間近くも道に迷ってしまった。
しかしゴシック、ルネッサンス、バロック、アールヌーヴォ時代の建築物が一体となった街並みは独特の雰囲気を醸し出しており、カレル橋から眺めるプラハ城は感無量であった。
またプラハの至る所にはカフェがあり、ゆったりと読書したり、ぼんやりと物思いにふけるという時間の使い方ができた。
夜になるとジャズの演奏がバーから聴こえ音楽に耳を傾けるなどという楽しみ方もでき、
プラハはどんな旅行者も自然体で受け入れてくれる、そんな雰囲気の都市なのである。
チェスキー・クリムロフ
8月11日
プラハから地下鉄を乗り継ぎ、ANDEL駅のバスターミナルから2時間かけてチェスキー・クリムロフに正午に到着した。
この街は1992年にユネスコの世界遺産に加えられ世界で最も美しい街の一つとして数えられている。
バスターミナルから歩いてゆくと谷の向こうに美しい街並みが見えた、そしてターミナルを背にして細い道を登って歩くとそこはもう中世のおとぎ話に出てくるような街並みであった、自分がいったいどの時代に生きているのだろうか??と錯覚すら覚えてしまうのだ。
この街は旧市街全体が小さいので道に迷うことない、僕は石畳の細い道を歩き回り小さな街並みを眺めるだけで十分楽しい時間を過ごすことができた。
リンツ
8月12日
チェスキー・クリムロフでユースホステルのミニバスに乗せてもらい約2時間、オーストリアのリンツに到着した。
リンツはウィーン、グラーツに次ぐ第三の都市でありオーストリア最大の工業都市である。
僕が好きなモーァルトの交響曲『リンツ』はこの街で作曲されたといわれている。
また音楽家、ブルックナー生誕の地である、9月に開かれる国際ブルックナー音楽祭が近いこともあり町自体が活気にあふれていた。
リンツ中央駅から街の中心であるハウプト広場へ向かうため地下ホームから出る路面電車に乗った。
バロック様式やロココ様式の立ち並ぶハウプト広場は強い風に加え小雨がぱらついていた。この旅が始まって初の雨である!
左の写真は三位一体記念碑といって18世紀にリンツを襲った3つの悲劇(ペスト、火災、トルコ軍の襲撃)の終焉を神様に感謝するために作られたものだという。
また、広場のど真ん中をトラムという市電が走っていて駅もあった、僕はリンツのトラムを眺めているだけでこの街の雰囲気を満喫できた気がした。 ウィーン8月13日
リンツからQBBのICに乗ること2時間程で芸術の都ウィーンに到着した。
まずはウィーン西駅のインフォメーションセンターで日本語の地図とパンフレットをもらった、オーストリアは日本語のガイドがあるので非常に便利だ、僕は前もって予約した西駅付近のユースホステルにチェックインしてから、憧れだったシュテファン寺院に向かうことにした。
ウィーンの地下鉄は路線別に色分けしてあり外国人にとてもわかりやすいよう工夫されているので乗り間違えることもなく目的地に無事到着できた。
地下鉄Stephansplatz駅を降りるとお洒落なカフェやお土産屋、レストランなど沢山のお店で華やかに賑わう、ケルントナー通りにぶち当たった。
この通りは歩行者天国であり、ミュージシャンや大道芸人が通行人に自慢のパフォーマンスを披露する姿に僕は見惚れてしまった・・・・・
ガイドブックによるとウィーンの見どころは1区に集中しており、ウィーンはリンクと呼ばれる環状道路で囲まれた旧市街を中心に構成されているようだ。
シュテファン寺院はゴシック様式の大聖堂で、天に向かってそびえる137mの塔に目を奪われてしまう・・・・ただ残念だったのは排気ガスの影響で外壁が汚れてしまっていることだ、外部とは対照的に寺院の内部は巨大なステンドガラスが多くの観光客を呑み込み幻想的な空気を醸し出していた。
国立オペラ座
8月14日
8月は国立オペラ座が休みになるが客席や舞台裏を見学できるガイドツアーが催されていたので15時からの日本語のツアーに参加することにした。
チケット窓口は各国共通1か所のみ販売だったので30分前に並び5ユーロで購入、その後ドイツ人の日本語通訳の方に客席に案内されオペラ座の歴史について説明を受けた。
初めての公演はモーァルトのドン・ジョバンニで世界大戦後再建され2010年まで小澤征爾が音楽監督を務める。
公演は年間300公演以上あり、ボックス席の後ろの立ち見席は3ユーロからで購入できるがすごい行列ができるらしい・・できれば鑑賞したかった;
また客席にある字幕表示機は英語とドイツ語から選択できるという。
その他にもガイドの方からガイドブックに載ってない面白い話をたくさん聞くことができいい体験ができたと思う。
シェーンブルーン宮殿
8月15日
ウィーン滞在最終日は世界中から多くの観光客毎年訪れる世界遺産のシェーンブルーン宮殿を訪れた。
シェーンブルーン宮殿に使われた装飾の色は16人の子供を産んだマリア・テレジアが黄色を好んだことから由来しているそうだ。
とりあえず宮殿内部を見学させてもらうことにした、入口で日本語のオーディオガイドを無料で借りることができ皇帝や家族が使っていた豪華な部屋や広間を見学することができた。
宮殿内にはマリー・アントワネットの肖像画やハプスブル家が実際に使っていた豪華な家具や食器が展示されており、どのような生活をアントワネットが送っていたのかが伺えた。
それにしても、とてつもなくでかい宮殿である、東京ドーム30個分以上はあるのではないだろうか??
そして部屋数もさることながら庭の広さに驚かされた、どうやって手入れしているのだろうか??宮殿の後ろには動物園や日本庭園などがある巨大庭園が広がっている。
そしてずんずんと歩いて行くと山のてっぺんにグロリエッテという建造物にたどり着いた。
ここは現在戦没者慰霊として建てられたのだが中央部だけカフェとなっていた、ここから見るウィーンの旧市街の眺めはすばらしく、熱い日差しに加え、かなりきつい道のりを歩いてきた自分を癒してくれた。
そして運動した後に立カフェで飲んだアイスコーヒが最高においしかったのである。
ブタペスト
8月16日〜8月17日
ウィーンからICで揺られること約4時間、一人旅最後の目的地ブタペストに到着した!
実際、目のあたりにするとドナウの真珠と謳われるだけあってとても綺麗な町である。
早速観光といきたかったが、歩いていると頭痛がしてきたので帰りの切符を購入した後はなにもせずにユースホステルで寝ることにした。
その翌日は元気になっていたのでさっそく朝から観光することに、まずはバロック様式とネオゴシック様式が入り混じったヨーロッパ最大級の建造物、国会議事堂を訪れた。
早速見学チケットを買いに行ったがどうやら今日のチケットは売り切れらしい・・・・泣)
その後は気を取り直してデアーク広場から300m程歩いたところにあるブタペスト随一の大聖堂である、聖イーシュトバーン大聖堂を見学した。
館内はフラスコ画が美しく、直径22mのドームと相まって幻想的な雰囲気を出していた。
これはブタペスト最大級の中央市場。
たくさんのお店が入っていて地元の人と観光客で賑わいをみせていた。
ハンガリーの名産品と言えばパプリカである、この市場ではどこの店行ってもパプリカが山のように売られている、吊り下げられて売られているものもあるが乾燥させて粉末にしたものも売られていた。
今まで夜は外出しなかったのだが一人旅最後の夜はホステルに籠らずブタペストの夜景を見るために外出した。
ドナウの夜はあまりにも鮮やかだった、右手のくさり橋は綺麗にライトアップされ、歴史的建造物から放たれる光が夜空に浮かび上がっている。
夜のブタペストには一見の価値がある、それは、昼は人々で溢れているが夜は落ち着いて一人の時間を味わえるからである。僕はこのグラデーションを一生忘れないと思う。
今日で旅は終わる…11日に及んだ一人旅もあっという間に過ぎ去ってしまったようだ。
ポーランドの結婚式
一人旅を終えてワルシャワに帰ると、ディアナさんの従姉が結婚式を挙げるので一緒に来ないかと誘われた、せっかくなので参加してみることにした。
会場はカリッシュという町から車で1時間ぐらいかかる小さな田舎町だった。
儀式は教会で行われカトリック方式に基づき祈りの言葉、新郎新婦の入場、誓いの言葉、指輪交換、キスが行われ最後はみんなで賛美歌を歌って儀式は終了した。
そのあとはいよいよ披露宴の始まりであるがこれがまた凄まじかったのである・・・・・
式が終わるとまずホールにて早速ディナー、食事の席は机の上に名前が書かれたものではなく空いた所から座って行く形式であった。
メニューはポーランドの伝統的なコンソメスープ、サラダ、鶏肉のソテーと続きボリュームたっぷりのオンパレードだ、これだけでおなかいっぱいになってしまいそうだがみんな食べること食べること・・・・一旦食事が済むと健康と長寿を願う歌を合唱していた。
そして新郎新婦が軽い挨拶を済ますとプロの演奏者による演奏が始まり二人の愛のダンスが始まり・・・新郎新婦のダンスが終わると今度は招待客も参加してのダンスが始まる。
これにはカップルはもちろん、老若問わず参加する。(僕も参加させられました;;)
その後は料理が次から次に運ばれ、飲めや踊れやのドンチャン騒ぎが続けられましたのだ
話によるとこの日のパーティは朝まで続けられたそうなのだが、僕とディアナさんは明日の朝電車でワルシャワへ帰らなければならなかったので深夜に引き揚げさせてもらった。
日本では結婚式というと厳粛に式が行われた後、新郎新婦のなりそめやら、友人によるスピーチを大人しく聞いて終わってしまうのだが、ポーランドの式ではなく飲み会みたいなものであり、はっきり言って体力勝負みたいなものであった。
帰国・・・・・
9月1日
長かったポーランドのホームスティが終わり、日本に無事帰国した。
日本を出発する時はインフルエンザが、世界的に流行しておりポーランドではどうなっているのだろうかと心配したが、来てみれば感染者はほとんどおらず、ワルシャワでは日本のようにニュースや新聞で報道されず何か肩すかしをくらった部分があった。
またワルシャワで約2週間ホームスティさせてもらった時、ポーランドの方々はみんなフレンドリーに接してくれて、日本人にとても良い印象をもっているだと感じたし、ホストのディアナさんはとてもまじめで堅実人で、日本人と違い思ったことを素直にいう性格だったが、僕は彼女そんなところが好きだった。
それと何といっても一人旅は自分にとってプラスであり楽しかった。
それはまず第一に、人に左右されずに自由に自分の好き勝手に行きたい場所に行け、マイペースな旅行楽しめたことだったり、旅先のユースホステルで様々な出会いがあり、外国人や日本の大学生とコミュニケーションを取ることができ、その後仲良くなり一緒に観光したりすることができたからからだ。
僕にとって今回の旅行は新たな発見の場であり、自分を見つめ、旅路を楽しむだけでなく、自然体でいろんな人と会話をすることで人生は開けるんだよと教えてくれた気がした。
今回このような貴重な機会を作っていただいた名城大学、稲葉先生、ホストであるディアナさん、その他お世話になった方々には心から感謝しております。