名古屋ハリストス正教会
日露戦争と正教会
正教はロシアのニコライ・カサートキンによって伝道された。そのためロシアと一体と見なされていた。それ故に日露関係が悪化すると正教会は露探(ロシアのスパイ)とされ迫害を受けた。しかしニコライは帰国の薦めを断り、信徒とともに難局を乗り越えようとした。ニコライ大主教率いる日本正教会では「俘虜信仰慰安会」を設立し、各地に司祭を派遣し奉神礼や説教を行い、祈祷書などの書籍やイコン、その他の支援物資を送付した。
名古屋捕虜収容所と柴山神父
日露戦争によるロシア人捕虜は80.000人近くに達し、全国29カ所の収容所に収監された。名古屋の捕虜収容所は全国で松山、丸亀、姫路、福知山についで5番目に設営され、約4.000人の捕虜を収容した。その特徴は、将校の数が松山に次いで多く、日本にいた13人の将官のうち8人を収容していたことにある。将校には外出が認められ、将軍に至っては賓客並の待遇がなされるなど、捕虜といえどもかなり自由な雰囲気があった。さらにロシアの将軍は貴族階級に属し、本国からの送金があったため裕福だった。そのため東本願寺名古屋別院にフォーク中将が西本願寺名古屋別院にイコノスタス(聖障)がそれぞれ献納された。松山の捕虜も名古屋へ移送されている。
日露戦争当時、名古屋正教会を管轄していたのは、ペトル柴山神父(1857-1937年)である。
柴山神父は尾張藩の士族出身で、教師をした後、東京の神学校に通って、伝教者となる。1898年に地元信徒の要請によって司祭となった。後に捕虜の慰問活動の功績により、柴山神父は皇帝ニコライ二世から金の十字架を拝領した。それは今も柴山家に伝わっている。
慰問活動の内容としては、名古屋市に数カ所設置された捕虜収容所を訪問して祈祷を行う他、祈祷に必要な物品の調達、捕虜の注文の取次、葬儀の手配、さらに捕虜同士の争いの仲裁や脱走した兵士に反省や謝罪を勧めるなど、多岐にわたる慰問活動を行っており捕虜からの信頼もあつかった。
講和条約と捕虜の引き揚げ
1905年9月にポーツマス条約が締結され、日露戦争は終結した。11月から捕虜の送還が開始され、翌年2月に最後の捕虜が名古屋を発ち、捕虜収容所は閉鎖された。名古屋に収容されていた捕虜のうち15名が亡くなり、陸軍墓地に埋葬された。戦後、陸軍墓地は平和公園に移転したが、その後ロシア人墓地は放置されていたが1991年4月に日ソ協会(現日本ユーラシア協会)との共同で復元された。柴山神父と親交のあった捕虜も多かったため、別れ際に写真を撮ったりして残していくもの居た。
また、2007年にはロシア中南部オムスクから連絡があり、当時の名古屋で捕虜であったという人の子孫からの問い合わせもあった。
感想
日露戦争の真っただ中という状況であったが、正教という共通点で手厚く面倒を見てきた。最初は理解されなかったが、それでも真心で接してきたことで今日の日露関係にも貢献していると感じた。そして何よりも敵であるロシア人に対して真心を持って接する姿が素晴らしく感じ、国や人種が違っても話せばわかりあえるのだなと再確認した。