名古屋ハリストス正教会
1.
日露戦争と正教会
ロシアからニコライ、カサートキンによって伝道された正教はロシアと一体とみなされた。
それ故に日露関係が悪化すると正教徒は「露探(ロシアのスパイ)」とみなされ迫害を受けた。
しかし、ニコライは帰国の薦めを断り、信徒とともに難局を乗り越えようとする。
正教会では、「俘虜信仰慰安会」を結成し各地の捕虜収容所に神父を派遣して支援物資を派遣した。
2. 名古屋会管轄司祭柴山準行神父
日露戦争時、名古屋正教会を管轄していたのはペトル柴山準行神父。
尾張藩の土族出身で教師をした後、東京の神学校に通って伝教者となり1898年に地元信徒の要請で司祭となった。
3.
ロシア人捕虜への慰問活動
1904年11月、松山から捕虜が移送、東別院をはじめとして次々と名古屋へ。
柴山神父は翌月から収容所を訪ねている。
翌月1月に旅順が陥落、旅順守備隊の将軍が名古屋へ。
東別院のフォーク中将と西別院のベール少将が相次いでイコノスタスを献納し、
収容所の捕虜たちも祈祷にあずかれる体制が整えられた。
柴山神父は祈祷なみならず、祈祷に必要な物品の調達、葬儀の手配や捕虜同士の争いの仲介や
脱走した捕虜に反省と、きめ細かい慰問と行い、捕虜の信頼を得た。
1905年9月にポーツマス条約が締結され、日露戦争は終結。
11月から捕虜の本国送還が開始され、翌年2月最後の捕虜が名古屋を発ち捕虜収容所は閉鎖された。
捕虜の慰問活動の功績により柴山神父はニコライ二世から金の十字架を拝領した。
感想
私は今回の名古屋ハリストス正教会で話を聞いて感じたことは、柴山神父はロシア人の捕虜に家族のように接し
時には厳しく時には優しくとても面倒見のいい人だと思いました。
日露戦争が終結してロシア人捕虜が国に帰った後、柴山神父のお世話になった捕虜の人々は、
柴山神父のことを家族の人々に話したということを聞いて私は、柴山神父はロシア人の捕虜にとても感謝されており
柴山神父のことを孫までに話す人がいるほどなのだから信頼がとても厚い人だと感じました。
始め、柴山神父の捕虜慰問活動は理解されていなかった。
キリスト教徒としての愛と真心によって、軍や警察関係者からも理解を得ることができ、ロシア人捕虜からは敬愛と感謝を獲得するに至った。
正教という共通の信仰がロシアと日本の人々の交流を可能にし、このことは今後の日本とロシアの友好にとっても記憶されるべきことである。
柴山神父の活動は日露戦争時においても、重要であり。今現在の日露関係があるのも柴山神父の活動があったからできているのではないかと私は感じました。