名古屋ハリストス正教会のレポート

 

                        伊藤 善高

 

 今回、名古屋ハリストス正教会でお話しを聞かさせていただきました。

 正教会は最も古いキリスト教です。西ヨーロッパに定着した西方諸教派に対し、キリスト教発祥の地である中近東や、ギリシャから東欧、ロシアに展開されたため「ギリシャ正教会」「東欧正教会」ともに呼ばれる。伝統を重んじ、キリスト教が一つであった時代の教会の姿を今日まで忠実につたえている。日本には、1861年ロシア修道士ニコライによって伝道された。最初の教会が、函館、のちに東京、神田に拠点を移し、東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立しました。名古屋では、桶屋町(今の伏見あたり)で「生神女福音教会」として集会を始めました。明治30年頃富士塚町に土地を購入して移転します。日露戦争時には名古屋の各所にたくさんのロシア人捕虜が収容されましたが、日本家屋の小さな教会が捕虜たちの心のよりどころとなりました。大正12年に同地に総二階の聖堂を建設しましたが、第二次世界大戦で焼失し、1949年昭和区山花町に移転しました。1972年に規模を拡大して同地に再建され、やがてそこも手狭となり2006年、山脇町の地に移転新築を決定しました。

日露戦争捕虜と名古屋正教会の関係、日露戦争当時、1898年に地元信徒の要請により司祭となった、ペトル柴山準行神父が名古屋正教会を管轄していた。190411月、松山から捕虜が移送され、東別院に収容されたのを始めとして、続々と捕虜が名古屋に到着した。柴山神父は翌月から捕虜収容所に訪ねている。翌年1月に旅順要塞が陥落すると、旅順守備隊の将軍たちが名古屋に送られてきた。フォーク中将とベールイ少将は相次いでイコノスタスを献納し、収容所でも捕虜たちが祈祷にあずかれる体制が整えられた。柴山神父は祈祷のみならず、祈祷に必要な物品の調達、葬儀の手配や捕虜同士の争いの仲介や脱走した捕虜に反省と謝罪を勧めたりと、慰問活動を行い、捕虜の信頼を獲得した。捕虜にはかなりの行動の自由が認められ、市内を散策したり、祭日には名古屋教会に参祷して、日本人信徒とともに祈祷することもあった。

最後に、大変印象に残ったのは、文字で読み取って知るということだけではなく、写真の方が一枚で、多くのものが得られるということです。写真を見てイコノスタスは知っていたのですが、実際見てみると全然違いとても荘厳で神秘的な雰囲気を感じました、百聞は一見にしかずという言葉が身に染みました。